自己紹介

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住民代理店BOB(Break Occupied Barier)代表。自転車で俳諧するおっさん。ミッションは誰かさんを輝かすこと。

2008年12月1日月曜日

NHK生涯福祉賞

http://www.npwo.or.jp/library/award/

第2部門に応募したけどダメでした。
全国にはもっと凄い人たちがいるんですね。
でも、いいです。精一杯やりましたから…。

以下全文掲載します。
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輝け!私たちの希望
原田 明

「まんぼうショー」
「はい、この帽子をかぶって。ベストも着て下さい。」
女の人は言った。
「俺もステージに立つんかいな?そんなん聞いてないでえ…。」
頭の整理がつかないまま音楽が流れ出した。
「ズン、チャカ、ズン、チャカ~♪」
黒のソフト帽に、黒のベスト。これは何かミュージカルのオープニングのようではないか?前列にはメンバーの皆さん。知的障害者と呼ばれる人たち。こんな間近で、こんなに大勢、一度に出会ったことはない。みんな、リズムに乗って踊っている。うまいもんだ。
彼ら彼女らの振りを真似してなんとかついて行く。少々間違えても気にしない。もう破れかぶれ。あっという間に一曲目が終わる。
えーっと、次は、舞台に吊るしてある、お月さんの表情を二度、変えるための仕掛けのところだっけ…。カーテンの裏側に身をひそめる。メンバーさんのセリフに合わせて、重りにくくりつけてある紐を解く。セリフが来た!今だ!紐を放す。ふー。なんとかできた。(と思う)
ええーっと、次はと…。

社会起業家
二〇〇六年三月、私は五十四歳。二十二歳で広告代理店に入社以来、早くも三十二年間の月日が流れていた。ちょい上の先輩たちが定年退職を迎えて会社の風景も少しずつ変わっていた。
「昔は、五十五歳で定年やったから、あと一年足らずで定年やったんや…。」
仕事や、家庭の諸事に追われるように過ごしてきた。知らぬ間に前髪はなくなり、胴回りはメタボの基準をはるかに超えた。机も窓際に近づき、現場の仕事は若い世代がバリバリこなしている。
「これから、俺はどういう人生を生きるのか?」
時折、漠とした不安に襲われる…。そんな折、「社会起業家」という言葉を聞いた。当時ホリエモンがネットビジネスの寵児として、もてはやされていた。ネット起業家はダメでも、この方面なら出番がありそうな気がした。「社会企業家」を検索すると、大阪NPOセンターで「社会企業家カフェ」という催しがあるという。早速行ってみた。
毎月一回、社会起業家として活躍している方の経験談を聞いた。ホームレスの人を雑誌販売員に登用するビジネスや、引きこもり児童の世話、精神障害の若者たちの仕事づくりなど様々な社会起業家たちが活躍していた。実利本位の大阪でもこんなに社会的に意義のあることを実践している人たちがいるんだと感心した。
翻って、
「自分はどうなんだ?」
と自問する。私にはやりたいことが具体的に思い浮かばなかった。また、身の回りに解決すべき切実な問題も見当たらない。
「うーん、どうするか?」
結論は、
「誰かの助っ人になろう!」
であった。いきなり社会起業家を目指すのではなく、社会的に意義のあることをやっている人の助け手になろう!そのための現場を探そう!と思い立った。
そこで、その「起業家カフェ」のオーナー役であったNさんに
「いいところがあったら紹介してください。」
とお願いした。私は決心していた。より好みはせず。最初に紹介されたところへ出向いてみようと…。
しばらくしてNさんから
「『まんぼう』という知的障害者の作業所があって、ユニークな活動をしています。ミュージカルを踊るんです。今度催しがあって、私も出ます。一緒にどうですか」
という誘い。臨んだのが冒頭のシーンである。

素適な職場
手品やクラシック音楽に合わせた優雅な踊り、バラード調のラブソング、法被姿の「ソーラン節」、手話を交えた合唱、扮装がおもしろい「ドレミの歌」、そして「マンボ№5」に乗って「マンボ!マンボ!」と連呼しながら踊るフィナーレ。それぞれの場面場面で、衣装の早変わりがある。その都度さりげなくメンバーの手助けをする。歌舞伎の黒子のようだ。またたく間に「まんぼうショー」は終わった。
ステージに立ちライトを浴び、音楽に乗って体を動かし、観客の拍手をもらう。高校の文化祭以来。なんとも言えない緊張感と充実感。衣装や道具を片付けている間に、興奮が去り、我に返る。すると、事前にメンバーとの間にあった壁のようなものが消え、同じステージを踏んだ仲間のとしての一体感がじわっと湧いてきた。彼らに障害(差し障りや害)なんかないじゃないか?彼らの方が断然うまいじゃないか!
その後、機会があるごとに「まんぼうショー」をサポートした。小学校でのステージではビデオ撮影、「まんぼうショー」のパンフレット制作、ホームページ更新。手伝うことはいくらでもあった。その都度、初めて出演した時、私に帽子とベストを渡した女性、所長のMさんは「ありがとうございます!」と、深々と頭を下げてくれた。NPO法人というのでもう少し組織立って動いているのかと思ったが、「孤軍奮闘」が実情だった。
勤務先は五千人の社員を擁する上場企業で、毎年熾烈な競争を潜りぬけた新人が百数十人入社してくる。一応管理職ということで仕事は現場がやってくれる。私の代わりはいくらでもいた。
一方、「まんぼう」では、作業室に入るとメンバーのTさんが大きな声で
「原田さんが来た!」
と歓迎してくれるし、みんな笑顔で迎えてくれる。期待度が違う。Tさんはいつも明るいまんぼうのムードメーカーだ。発語はないが張り切りガールのYさん。キラキラしたきれいな瞳で歓迎してくれる。背が高くハンサムボーイのIさん、まんぼうのリーダー的存在だ。普段はおとなしいが、ステージではドレスを着てはっきりと台詞をいうMさん。人前で緊張することを舞台に立つことで徐々に克服したFさん。ダンスの振りがしっかり身についていて、この人がいなければだれも踊り出せないNさん。小さな体でいつも一生懸命、鋭い突っ込みはピカ一のHさん。歌も踊りもうまいはずだが、今はまだ隠しているTさん。いつも元気にあいさつをしてくれるKさん。自由に踊らせるとこの人のノリには誰もついていけないNさん。
いつしかこの十人の小さな工房に魅せられていった。ゆっくりとした自然な時間。どこか懐かしい、ほのぼのとした雰囲気。とても素適な職場なのである。

父の死
「ここで働けたらいいな。…定年後か?あと数年。いや、そんなに待てない。いますぐにでも…」
思いは日に日に膨らんでいく。一方で地位や給料を捨てきれない自分もいて、迷いの日々が続く。そんな折、二〇〇六年九月二十三日、父が死んだ。その三年前に脳梗塞で倒れ、一時元気になったものの二回目の梗塞でほぼ寝たきりになっていた。幸いにして死に目に会うことができた。人の死に接するのは初めてだった。夕方六時二十八分二十秒。小さな息を吸いこんだまま、父の息は戻ってこなかった。
「人間は本当に死ぬんだ…。」
父は行動する人であった。新しいことにチャレンジするのが好きだった。失語と右腕の麻痺、どんなに無念であったろう。最期に言いたかったことは何だろう?慌ただしく葬儀が終わった後、私は考えた…。
心に父の声が響く
「人生一度だけ。お前の思うようにやれ!」

早期退職と住民代理店
会社では数年前から不定期に早期退職希望者の募集があった。今度その募集があったら必ず応募しよう。そう心に決めた。果たせるかな、その三ヶ月後、十二月二十五日、早期退職希望者募集の発表。
「来た!チャンス到来!」
退職金や年金の収入予測と家計の支出予測のシュミレーションをした。なんとかやっていけそうだ。そして翌二〇〇七年三月末、三十三年間のサラリーマン生活に別れを告げた。
退職前、同僚たちが代わる代わる、送別会を催してくれた。
「定年まであと五年。思い切りましたねえ」
「NPOだって?いいなあ、やりたいことがあって…。」
「原田さんらしいなあ。」
「わたしも興味あるんです。NPO。頑張ってくださいね。」
といろんな声をかけてくれた。わたしはこの会社が好きだった。辛いこともあったが、明るい自由闊達な雰囲気が好きだった。聡明かつ柔軟な発想の人材がたくさんいた。その人達から様々な問題解決法を教わった。
広告代理店は株式会社という性格上、どうしても大きな広告主、大きな仕事をねらうことを求められるが、その組織から離れるならば、個人事業や小さな仕事でも、広告のノウハウ、すなわち、ある事業(商品・サービス)の価値を整理しわかりやすく、効率よく他者に知らせることはできるのではないか。規模は小さくても社会的に意義のある事業を展開している人はたくさんいる。その人達の助けに少しでもなれたらいい。そういう住民側で頑張っている人の代理店があってもいいのではないか?そうだ住民代理店になろう!
退職後の二〇〇八年四月から、今後の重要分野を、環境、福祉、教育にしぼり、それぞれの分野での現場を決めた。福祉の分野の現場はもちろん「まんぼう」だ。週二回、M所長のやってほしいことを聞き、形にする。助成金申請書の作成、関係団体の会合参加、バザーの準備、イベントの案内状の作成等。久しぶりの現場作業は楽しかった。
同時に外部からではわからない、福祉事業の現実を知った。収入の大部分は公的な助成金であること、自主製品の販路獲得の難しさ、人材確保の難しさ等、問題が山積している。特に障害者自立支援法の制定により、現状の活動の継続が危ぶまれていることは大きなショックだった。現在、事務局長の肩書をいただき、いろんなセミナーに出かけて勉強中。業界用語の連続で門外漢にはわかりにくいことも多いが、「まんぼう」が存続するために一肌も二肌も脱ぐつもりである。

可能性開拓集団
なぜ、そうするのか?第一の理由。「まんぼう」がとても人間的なサイズで、居心地がいいこと。人類の生産活動はすでに地球の循環を破壊するまでに増大している。物の豊かさと心の豊かさが直結しないことは、昨今の様々な事件や世相を見れば明らかである。これからの時代は、人間サイズの規模で、心豊かにコミュニティの人たちと過ごすことが求められている。
第二は「まんぼう」の理念の先見性。法律的にはNPO法人で(知的)障害者福祉作業所ということになっているが、M所長の狙いは、障害の有無、国籍、性別、年齢の壁を越えた人類の可能性の開拓である。細かく縦割りになった行政の世界観や、ターゲットのセグメントに神経を使う企業のマーケティング論を超越している。
「みんな一緒の人間やんか」
多様性を受け入れる大らかな感覚がとても先進的である。これは「まんぼうショー」で、メンバーさんと一緒に踊り歌うことで体感できる。(見ているだけでは決してわからない。)

輝け!私たちの希望
当初、私はメンバーさんを障害者という側面だけからしか見ていなかった。しかし、「まんぼうショー」や作業所で彼らとコミュニケーションを交わすことによって、障害のあることは一つの側面にすぎず、彼らには、豊かな個性、才能、可能性があることを知った。
「まんぼう」のスローガン

Mind is Active and Natural. Brighten up Our Wish!
心はいきいき、自然に。輝け!私たちの希望。

これは、地上に生を受けた人間すべてに対するメッセージである。
私は、まんぼうで歌や和太鼓や踊り、自主製品作りをメンバーたちと一緒にやって、自分自身にもまだ発揮されていない才能があるのを知った。その喜びを多くの人に知ってもらいたいと思い、二〇〇八年四月にサポーターズクラブ「まんぼう倶楽部」を発足させた。この倶楽部を通じて一人でも多くの人が、障害者の存在と彼らの素晴らしい才能と個性に気づいてもらいたい。同時に、自身に隠れている才能や可能性にも気づいてもらいたい。
毎週第三土曜日に会合をもち、メンバーと一緒にダンスを踊り、歌を歌う。リズムに乗って体を動かし、腹式呼吸で大きな声を出す。歌唱指導は声楽家U先生。ダンスはエアロビクスのインストラクターライセンスを持つM所長。スタッフのTさんもピップホップのダンサーである。とにかくとても楽しい。七月現在、倶楽部員は十一名。各方面で豊富なキャリアを持つ人たちである。
来年の二月八日、大阪市中央公会堂で「まんぼう設立十周年記念公演」が開催される。一五〇〇人収容。大阪の伝統的な建物である。この晴れ舞台を成功させるためには、もっと多くのサポーターが必要である。倶楽部員同士のネットワークが広がって、新しい交友関係が構築されるだろう。これからどんな人材が現れるのか楽しみである

まんぼう(満望)の海
「まんぼう」と出会う前、障害者のことについて全く何も知らなかった。身体、知的、精神という区別も知らなかった。
二〇〇六年四月に施行された障害者自立支援法の第一条には、
「障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とする」
と明記されている。こんな当たり前のことが、たった二年前に制定されたのだ。それまでの障害者本人と家族の苦難の歴史を思うと、厳粛な気持ちにさせられる。しかも、法律上の文言は理念を表しただけ、現実はそうでない部分が大半だと思う。
これまで障害者は地域から離され、障害者福祉という枠組みの中で、生活せざるを得なかったのではなかろうか?その枠組みから彼らを開放し、それまで自分には関係ないと思っていた一般の人々もその輪に入る。そこには障害者本人もその家族も、一般の人もだれも到達していない未知の世界があるのではないだろうか。
「まんぼうショー」はその世界へ導く架け橋として絶好のコンテンツである。

まだ誰も行ったことのない世界、みんなの希望がかなうところ。
私はそこを「まんぼう(満望)の海」と呼ぶ。




参考文献:「創発型地域生活支援ガイドブック2008」 編集/特定非営利活動法人ふわり

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